東京地方裁判所 平成2年(ワ)13629号 判決 1992年4月14日
原告
渡辺専一
右訴訟代理人弁護士
松井茂樹
被告
金子祐吉
右訴訟代理人弁護士
田中富雄
同
横松昌典
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 (主位的請求)
被告は、原告に対し、別紙物件目録(2)記載の建物(以下「本件建物」という。)を明け渡し、かつ、平成二年四月一日から右明渡済みまで一か月金三万円の割合による金員を支払え。
(予備的請求)
被告は、原告に対し、原告から、金一五〇万円ないし裁判所が相当と認める金員の支払いを受けるのと引換えに、本件建物を明け渡し、かつ、平成二年七月三〇日から右明渡済みまで一か月金三万円の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 1につき仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 原告は、昭和六二年七月一五日、被告に対し、本件建物を次の約定で賃貸し(以下「本件賃貸借」という。)、これを引き渡した。
(一) 期間 同日から平成元年七月一四日までの二年間
(二) 賃料 一か月三万円
(三) 目的 住居
2(一) 原告は、本件建物を含む別紙物件目録(1)記載の建物(以下「白雲荘」という。)及びその敷地を所有しているが、白雲荘は、昭和三〇年に建築されたもので、建て替え時期に来ており、その建て替えの必要に迫られていた。そこで、原告は、昭和六一年一二月頃から白雲荘の各部屋について賃貸借契約を結ぶにあたっては、契約期間を二年間とし、契約満了の場合は無条件で立ち退くことを特約していた。そして、原告は、被告又は訴外佐々木孝一郎(以下「佐々木」という。被告の代理人)に対しても、白雲荘は老朽化して危険であり、建て替えの必要があるので、契約期間は二年間だけであり、更新できない旨を説明したうえ、本件賃貸借において、契約期間は二年間のみとし、期間満了のときは、無条件で立ち退くものとする旨の特約をなしたものである。したがって、賃料も一か月三万円という低額で賃貸している。さらに、原告は、平成元年三月三一日には、被告との間で、後記(二)(1)の合意もなしたのである。原告は、白雲荘を建て替えるため、その住人に順次移転してもらっており、入居者はかつて一六世帯あったが、現在残っているのは六世帯(すべて単身者)だけであり、原告は借り入れをして建て替える予定である。
以上の事情からして、本件賃貸借は、一時使用のための賃貸借であるから、期間の満了により平成元年七月一四日限り終了した。
(二) 仮に(一)の主張が認められないとしても、
(1) 原告と被告は、平成元年三月三一日、本件賃貸借につき、本件建物の明渡期限を同年七月一五日までとし、本件建物を同日までに無条件で明け渡す旨の合意をした(以下「本件合意」という。)。
これは、平成元年三月三一日に本件賃貸借を合意解約し同年七月一五日まで明渡を猶予するという合意、又は同日の到来により本件賃貸借を解約する旨の期限付合意解約である。
(2) 被告の後記二2の本件合意が無効であるとの主張については争う。
(三) 仮に(二)の主張が認められないとしても、
(1) 本件賃貸借には「賃借人は、貸室内において危険、不潔、その他近隣の迷惑となるべき行為をしてはならない。賃借人が本契約に違反したときは、賃貸人は本契約を解除することができる。」との約定があるにも拘らず、被告は、本件建物のような狭い室内で猫を三匹も飼育しており、室内を不衛生極まりない状態にしている。また、被告は、(一)のとおり、本件賃貸借を一時使用のための賃貸借とし、(二)のとおり、本件合意をし、原告から再三本件建物の明渡しを求められているにも拘らず、本件建物内で猫を飼育しているものである。
これは、契約に違反し賃貸借契約における信頼関係を著しく破壊する行為というべきである。
(2) 原告は、被告に対し、平成三年六月一二日の本件口頭弁論期日において、原被告間の本件建物についての賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした。
(四) 仮に(三)の主張が認められないとしても、
(1) 原告は、被告に対し、平成二年一月二六日、本件賃貸借の解約の申入れの意思表示をなし、右意思表示は同月二九日被告に到達した。
(2) 右解約申入れには、次のような正当事由がある。
① 前記(一)、(二)(1)、(三)(1)の事情。なお、白雲荘の敷地の有効利用をはかるための建て替えが認められるべきである。
② 被告の後記二2の自己使用の必要性についての主張は不知。
(3) よって、原被告間の本件建物についての賃貸借契約は平成二年七月二九日限り終了した。
(五) 仮に(四)(2)の事情だけでは、十分な正当事由があるとは認められないとしても、原告は、平成四年二月七日の本件口頭弁論期日において、解約の申入れの正当事由を補完するため、被告に対し、立退料として一五〇万円ないし裁判所が相当と認める金員(但し、約二〇〇万円)を提供する旨申し出た。
3 よって、原告は、賃貸借契約の終了に基づき、被告に対し、本件建物の明渡しと平成二年四月一日から右明渡済みまで一か月三万円の割合による賃料相当損害金の支払いを、予備的に、原告から、金一五〇万円ないし裁判所が相当と認める金員の支払いを受けるのと引換えに、本件建物の明渡しと平成二年七月三〇日から右明渡済みまで一か月三万円の割合による賃料相当損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2の事実について
(一)のうち、原告が白雲荘及びその敷地を所有していることは不知、その余は否認する。原告主張の特約は借家法の更新に関する規定の適用を免れようとするものであり、同法六条により無効である。右特約条項には、一時使用を基礎づける具体的な事実の記載がなく、原告主張の建て替えの必要があるということも記載されていない。一時使用の賃貸借といえるためには、家主側に短期間の賃貸後家屋を使用する具体的計画とその実現の見通しがあり、借家人が右家主側の計画を了承していることを要するところ、白雲荘は、本件賃貸借当時も現在も、緊急に建て替えを必要とする状態ではなく、老朽化による建て替えの客観的必要性及びその具体的計画は存在しておらず、せいぜい原告の主観的な希望が存在しただけであるし、被告が建て替えの必要性と具体的な計画を了承していたこともない。原告は、白雲荘の賃借人に対し、本件訴訟を含め九件の明渡訴訟を提起していたが、うち二件は訴えを取り下げ、うち一件は、平成三年三月、新賃料額を定める旨の裁判上の和解をして、訴えを取り下げ、当面、白雲荘の建て替えを断念しているが、このことは、原告自身、白雲荘の建て替えの必要性および緊急性を実際にはそれほど感じていないことを示すものである。
(二)(1)は否認する。「平成元年七月一五日」はもともとの契約上の期限であって、新たに定められた期限ではない。また、原告は、平成元年三月三一日以後も賃料として金員を受領しているのであるから、明渡猶予の合意とか期限付合意解約が成立したといえない。
仮に、原被告間において平成元年三月三一日に合意が成立したとしても、それは次の理由により無効である。第一に、右合意は被告の軽率や無知に乗じてなされたものであり、被告には真実立ち退くという意思はなかったものである。すなわち、右合意の際、被告は、訴外長井清子(以下「長井」という。)から、「大家(原告)に言われて立ち退きのことで来たので、大家に見せる証明のために判子を貸してほしい。」と言われ、判を長井に渡したところ、同人が誓約書(甲第二号証)に押印したもので、被告は右誓約書の内容を見ていないし、印刷部分以外の立ち退き期限欄を含む記載事項も被告が記載したものではない。しかも、長井は、「近いうちに大家さんも話に来るだろうから。」と言い、「誓約」の内容や意味について具体的な説明は一切しなかったものである。加えて、生活保護でやっと生活している被告が立ち退くという話であるのに、右誓約書作成の際、立退料・引越料等の金銭給付や引越先のことについて一切話がなく、したがって、引っ越しは現実の問題ではなく、被告としても、三か月半後に無条件で立ち退くという現実的な認識を持っていなかった。第二に、右合意は正当な理由に基づくものではないし、合意の内容が客観的にも不当でないとはいえない。すなわち、被告も含めて誓約書に判を押すように求められた借家人の本来の契約期間はまちまちである。したがって、これら複数の居住者に同時期の立ち退きを求めることが正当化されるには、老朽化による建て替えが真実必要性や緊急性をもったものではなくてはならない。しかし、そのような必要性や緊急性が存しないことは前記のとおりである。前記のような状態の被告にとって、三か月半以内に無条件で立ち退くという合意内容は不当である。
(三)(1)は否認する。被告が近所の野良猫に餌をやるなどしていたところ、餌を貰いに寄りつくようになったという程度で、「部屋で飼育している。」というようなことはない。そもそも猫の飼育が一般に不衛生とか不潔ということは言えないはずである。また、他の賃借人に迷惑をかけておらず、苦情が出たこともない。
(四)(2)①は否認ないし争う。なお、原告は、自宅のほか、杉並区内にも他のアパートを所有している。
被告には次のような自己使用の必要性がある。すなわち、被告は、大正一二年七月生まれの独身者で、子供もいないし、昭和六二年以降、高血圧・糖尿病・心臓障害のため、通院し治療を受けている。また、被告は、もともとは建築関係の仕事をしており、植木屋の手伝いをしていたこともあったが、現在は高齢になり病気がちなため、生活保護を受けて細々と生活をしている。このような被告の年令、健康状態、経済状態などからして、本件建物から転居することは困難である。
(五)のうち、立退料の提供により正当事由を補完することができるとの部分は争う。被告は、原告から立退料の提供を受けても、生活保護の一時打切りになるだけであり、右提供は正当事由を補完するものとはなりえない。
三 抗弁
1(請求原因2(一)に対し)
被告は平成元年七月一五日以降も本件建物の使用を継続している。原告は、これを知りながら、右使用継続について、遅滞なく異議を述べなかった。したがって、本件賃貸借は更新されたものである。
2(請求原因2(二)に対し)
被告は、原告に対し、原被告間の平成元年三月三一日の合意後も賃料として金員を支払い、原告もこれを受領している。したがって、右合意上の明渡しを求める意思は原告において撤回したものとみるべきである。
四 抗弁に対する認否
1 抗弁1の事実のうち、被告が平成元年七月一五日以降も本件建物の使用を継続していることは認め、その余は否認する。原告は、被告に対し、同年一〇月三一日に本件建物の明渡しを求め、遅滞なく異議を述べた。
2 抗弁2の事実のうち、原告が原被告間の平成元年三月三一日の合意後も被告から金員を受領していたことは認め、その余は否認する。右金員は賃料ではない。
第三 証拠
一 本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録の記載を引用する。
二 理由中で引用した書証は、いずれもその成立(写しであるものについてはその原本の存在を含む。)について当事者間に争いがないか又は弁論の全趣旨によってこれを認めることができるものである。ただし、甲第一、第二号証の成立については、理由の二1のとおりである。
理由
一 請求原因1の事実は当事者間に争いがない。
二 請求原因2(一)(一時使用の賃貸借)について
1(一) 甲第一号証(貸室賃貸借契約書)が真正に成立したものかどうかについて検討する。同号証の被告名下の印影が被告の印章によって顕出されたものであることは当事者間に争いがないから、反証のない限り、右印影は被告の意思に基づいて顕出されたものと事実上推定することができる。ところで、被告本人は、本件建物についての賃貸借契約書の作成に関し、「本件賃貸借当時、白雲荘の賃借人であった佐々木(後日死亡)に貸家を探してくれと頼んだところ、白雲荘が空いているというので、借りることにし、同人に判子を預け、契約書の作成など契約手続一切を任せたところ、一週間位して、佐々木が作成された契約書を封筒に入れてもってきてくれた。賃料が一か月三万円であることは佐々木から聞いたが、『契約期間は二ケ年のみとし、契約満了の場合は、無条件にて立退くものとする。』との特約条項を含むその余の条件については説明を受けていない。右契約書は、内容を見ないで、押入れに入れたままにしておいた。自分は(原告の所持する)甲第一号証の作成の場に立ち会っていないし、同号証の自分の氏名は自筆ではない。」旨供述する。しかしながら、被告本人が供述する、賃借人が契約内容とくに賃貸借期間等のような基本的な条件を確認しないとか賃貸借契約書を見ないということは通常考えられないこと、被告本人調書添付の宣誓書の被告の署名と甲第一号証の被告の氏名の筆跡とを比較対照すると、両者が酷似していることが認められることからすると、被告本人の右供述中、甲第一号証の被告名下の印影は自己の意思に基づかずに顕出されたものであるとの趣旨の部分は、にわかに信用できず、他に反証はない。そうすると、甲第一号証の被告名下の印影は被告の意思に基づいて顕出されたものと推定されるから、同号証の被告作成部分は真正に成立したものと推定される。また、甲第一号証のその余の作成部分は原告本人の供述及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる。
(二) 次に、甲第二号証(誓約書)が真正に成立したものかどうかについて検討するに、被告本人は、「平成元年三月三一日、白雲荘の管理人の長井から、判子をもって同人の部屋に来るように言われ他の借家人五名とともに集まった際、『大家(原告)から言われて立ち退きのことで来たので、協力してほしい。この書類に判を押してくれ。立ち退きのために来たことの証明に必要だから判子を貸してくれ。白雲荘は建て替える。近いうちに大家さんも話しにくるだろうから。』などと言われ、判子を長井に渡したところ、同人が書面に判子を押した。右書面の内容は見ていないしその内容の具体的な説明も受けていない。いつまでに立ち退くという話もなかった。」旨供述する。ところで、右供述によっても、被告は本件建物の立ち退きに関係のある書面に判を押すことを了承していることが認められるうえ、右供述のような話が借家人六名の前で管理人からあったとすれば、当然いつ立ち退くことになるのかとかそれがどういう書面なのかという質疑応答がある筈であるし、被告は、前記(一)のとおり、契約期間満了の場合は無条件で立ち退くとの特約条項のある契約書を作成していたのであるから、被告は、右立ち退き期限が到来したときには本件建物から立ち退くとの趣旨の書面に判を押すことを了解して長井に判を渡したものと認められる。以上の点に、甲第二号証の被告名下の印影が被告の印章によって顕出されたものであること(当事者間に争いがない。)を考え合わせると、甲第二号証のうち「下7」の部分及び氏名欄の下の「契約期間……」で始まる五行部分を除く部分は、真正に成立したものと認められる。
しかしながら、「下7号室」は被告の借りている部屋ではないこと、「契約期間……」で始まる五行部分の記載内容の殆どは原告の意思内容を表すものであることに被告本人の供述を考え合わせると、「下7」の部分及び氏名欄の下の「契約期間……」で始まる五行部分は、被告の意思に基づかないものと認められる。
2 甲第一号証、第二号証(ただし、「下7」の部分及び氏名欄の下の「契約期間……」で始まる五行部分は除く。)、第三号証の一、二、第四号証、第六号証、第八号証の一ないし五、乙第二号証の一、第四ないし第六号証及び原被告各本人の供述並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(一) 白雲荘は、昭和三〇年に新築された木造モルタル瓦葺きで総床面積約二二四平方メートルの二階建て共同住宅(一六部屋あるアパート)であるが、平成三年六月の時点でも、土台や柱は腐食しておらず、良好な状態が保たれており、モルタルリシン吹きつけの外壁も殆どクラックがなく、屋根に漏水個所もなく、配線等の電気系統にも支障はなく、内部天井・内部壁・床も問題のない状況であり、その管理次第では、なお一〇数年は使用に耐えられるものである。
原告は、白雲荘(その敷地を含む。)を所有するほか、杉並区にも共同住宅(アパート)を所有している。
(二) 原告は、白雲荘建築後三〇年余経過した昭和六一年一二月頃から、それを取壊しその跡にマンションを建てることを考え、白雲荘の各部屋について賃貸借契約(更新契約も含む。)を結ぶにあたっては、賃貸借の期間は二年間(ただし、昭和六三年三月一日の契約の場合は、約一年四か月間とした。)とし、期間満了のときは無条件で立ち退くこと(更には、更新しないこと)を特約した。ただし、権利金の授受はなく、敷金として賃料の一か月分が授受され、賃料の増額を請求できるとの条項もある。また、右の更新契約においては賃料が増額された。
原告は、被告との間でも、昭和六二年七月一五日、本件賃貸借を結ぶに当たり、賃貸借期間は二年間とし、期間満了のときは無条件で立ち退くものとする旨の特約をし、賃料は毎月末日限り翌月分を支払い、増額請求できる旨の約束をし、権利金の授受はないが、敷金として賃料の一か月分を受領した。被告の側には、右のような期間とし特約をするについて原告から言われるままにしたという以上の理由はなく、期間満了の際に適当な移転先を見つけることができる見通しがあるわけではなかった。
(三) 原告は、平成元年三月三一日頃、契約書上の立退(明渡)期限までは賃貸するが、右期限には間違いなく明け渡してもらう目的で、白雲荘管理人の長井を介し、当時の白雲荘の約一〇人の借家人に対し、白雲荘を建て替えると伝えたうえ、右期限までには無条件で立ち退くことを誓約する旨記載された誓約書の提出を求めたところ、四、五人は右誓約書を提出したが、その余の人は提出しなかった。
被告は、平成元年三月三一日(本件賃貸借の期間満了の約三か月半前)、長井から、誓約書の提出を求められるや、その場でこれを提出して、原告との間で、本件賃貸借の期間満了日の翌日である同年七月一五日までに無条件で明け渡す旨の合意をした。しかしながら、その際、被告において、平成元年七月一五日までに転居して本件建物を明け渡すことができる見通しがあるわけではなかった。被告は、その後も、毎月末日限り翌月分払いの約定どおり、原告に対し、本件建物の平成元年五月分ないし七月分の賃料を支払い、原告もこれを賃料として受領した。
(四) その後、原告は、白雲荘の入居者に対し、訴訟外で明渡しを求めたり、九件の明渡訴訟を提起した結果、現在は一六部屋のうち七部屋に入居者がいるだけとなった(うち二部屋の入居者は、後記訴訟上の和解による明渡期限が到来したが、なお居住しているものである。)。訴訟を提起した事件は、うち三件は訴訟上の和解により明け渡すことになり、二件は単純に訴えを取り下げ、一件(契約締結日が昭和六三年三月一日、期間が同日から平成元年七月一四日までの約一年四か月間で、特約として期間満了の際は無条件で明け渡す旨の条項がある賃貸借契約(更新契約でない。)についての事件)は訴訟上の和解により賃料増額の合意をして訴えを取り下げ(したがって、当然賃貸借契約は存続することになる。)、二件(本件訴訟を含む。)は係属中である。
原告は、被告に対しても、平成元年一〇月末日、口頭で、すでに明渡期限が過ぎているとして年内には明け渡すよう求めたところ、被告において、貸家を見つけて明け渡すとはいうものの明け渡さないため、さらに平成二年一月下旬には内容証明郵便をもって、二月末までに明渡すことを求めるとともに、明け渡さないときは法的措置をとる旨警告したが、貸家を探しているが見つからないとして、なお明渡しに応じないため、同年六月本件訴訟を提起するに至ったものである。
(五) 原告は、現在も、白雲荘を取り壊し、その跡にマンションを建てる予定である。
3 原告は、本件賃貸借の際、被告又は代理人の佐々木に対し、白雲荘が老朽化し危険になったので、建て替えの必要があると説明した旨主張し、右主張のうち、白雲荘が老朽化し危険になったと説明したとの部分については、これに沿う証拠として甲第三号証の一があるが、前記2(一)に認定の事実によれば、本件賃貸借当時、白雲荘が老朽化して危険であったとは認められないから、甲第三号証の一は採用できないし、建て替えの必要があると説明したとの部分については、これを認めるに足りる証拠がない。また、原告は、本件賃貸借の賃料は通常のそれに比較して低額であった旨主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。
なお、原告は、前記2(二)(五)のとおり、白雲荘を取壊し、マンションを建てる予定であったことが認められ、借り入れによりその資金を調達する予定である旨主張するのであるが、右建て替えの具体的な計画や資金調達の見込みについては、何ら主張立証しない。
4 ところで、借家法八条に定める一時使用のための賃貸借といいうるためには、賃貸借の動機、趣旨、建物の種類、利用目的、状態などの客観的事情から賃貸借を短期間に限って存続させることが合理的であると客観的に判断できる場合か、又は、合理的な範囲内で賃貸借の存続期間を特に一定の短期間に限定する理由が当事者間において了解され、賃借人がこれを明確に承認している場合でなければならないと考える。
そこで、検討するに、前記2に認定の事実などによれば、次のようにいうことができる。すなわち、賃貸借期間を二年間とすることは一時使用を目的としない借家契約においても通常行われているところである。期間満了の際の明渡合意は本件賃貸借が一時使用のための賃貸借であることを窺わせる一資料となる。しかし、右のような明渡合意は一時使用を目的としない借家契約においてもなされることがあるうえ、白雲荘は、本件賃貸借当時は勿論期間満了時においても、朽廃に迫っている状態でも建物の耐用年数が経過していることもなく、なお一〇数年の使用に耐えられるものであったから、右明渡合意を重視することはできない。本件建物はそのような白雲荘(一六室あるアパート)の一室であり、賃料の額・支払方法・改定条項も特に通常の借家契約の場合と異なるところはなく、本件建物の利用目的も居住用であり、本件賃貸借が一時使用のためであると判断できるような特異性はない。権利金の授受はなく、敷金として賃料の一か月分が授受されているだけであるが、白雲荘が昭和三〇年に建てられたアパートであること、更新契約による他の借家人も同じであることなどからすると、特に異とするに足りない。なお、原告としては、白雲荘をマンションに建て替える予定があったため、特に二年間という一定の期間を限って賃貸借を存続させようとしたものであるとしても、本件賃貸借当時、右建て替えの計画が、具体化していたとは認められず、資金調達や他の借家人の関係でいつ実現できるのかも明らかでなかったうえ、その後も、白雲荘の借家人に明渡しを求め、一部の借家人から明渡しを受けたほかには、右の計画が具体化したとか実現できるようになったとは認められないから、右のような原告の動機ないし主観的意図があったからといって、本件賃貸借が直ちに客観的に一時使用を目的とするものであるとはいえない。そして、被告が、本件賃貸借当時、右のような原告の主観的意図を了解し、これを明確に承認していたことも認められない。
そうすると、本件賃貸借は明らかに一時使用のためになされたものであるとはいえない。前記2で認定した、白雲荘の他の借家人との間でも、期間満了の際の明渡合意をし、重ねて右明渡期限までに明け渡す旨の合意をしたことは、右判断を左右するものではない。
三 請求原因2(二)(明渡猶予の合意又は期限付合意解約)について
前記二2(三)に認定の事実によれば、原被告間において、平成元年三月三一日、同年七月一五日の到来により本件賃貸借を解約する旨の期限付合意解約(以下「本件合意解約」という。)が成立したことが認められる。
しかしながら、前記二2(三)及び後記五2(二)(三)に認定の事実などによれば、本件合意解約は、実質的には本件賃貸借における期間満了の際の明渡合意を再確認したものであること、それゆえ、被告もよく考えることなく本件合意解約をしたこと、被告は、本件賃貸借における期間満了の際の明渡合意が借家法六条により無効であることを知らなかったこと、本件合意解約は、原告の側から見ると更新拒絶の実質を有するが、更新拒絶のできない時期になされていること、本件合意解約の際、更新拒絶に必要な正当事由は存しなかったこと、被告は、その際、約三か月半先に到来する明渡期限に転居できる見通しがなかっただけでなく、その後も適当な移転先が見つからないことなどが認められる。以上の事実関係のもとにおいては、本件合意解約は、被告の軽率・無知に乗じてなされた不当なものというべきであるから、借家法六条により無効である。
四 請求原因2(三)(信頼関係破壊による解除)について
甲第一号証、第九号証の一、二及び原被告各本人の供述並びに弁論の全趣旨によれば、本件賃貸借には、「賃借人は、貸室内において危険、不潔、その他近隣の迷惑となるべき行為をしてはならない。」旨の約定があること、被告は、白雲荘にやってくる野良猫に餌をやっていたところ懐いたため、平成三年六月頃からは、本件建物内に猫を入れたり、本件建物内で餌をやることがあること、その猫は多いときには三匹にもなること、本件建物内に入ると臭気がしたり、本件建物内に食べかすがちらかっていることもあること、しかし、被告は本件建物内に箱で猫用の便所を作ったり、新聞紙を敷くなどそれなりに配慮していたこと、白雲荘の他の入居者から苦情が出たことはないことが認められる。
右認定の事実関係のもとにおいては、被告の右行為は、本件賃貸借の右約定に違反するといわざる得ないが、いまだ賃貸借契約における信頼関係を破壊したとまでいうことはできない。右行為が、本件賃貸借や本件合意解約における明渡期限を経過し、原告から再三にわたり明渡しを求められていたにも拘らず、なされたものであることは、右判断を左右するものではない。
(しかし、被告は、本件建物内に猫を入れて餌をやるということは差し控えるべきである。)
したがって、請求原因2(三)の主張は、その余の点について判断するまでもなく、採用できない。
五 請求原因2(四)(五)(正当事由による解約の申入れ)について
1 請求原因2(四)(1)(解約の申入れ)の事実は、被告において明らかに争わないから、自白したものとみなす。
2(一) 原告の必要性、本件賃貸借に関する従前の経過、本件建物を含む白雲荘の利用状況、白雲荘の現況などは、前記二2及び前記四に認定のとおりである。
(二) 乙第一号証、被告本人の供述及び弁論の全趣旨によれば、被告は、大正一二年七月生まれの独身者で子供もおらず、高血圧症・糖尿病・心臓障害で、遅くとも昭和六二年一月からは通院し治療を受けていること、被告は、昭和五八年頃から生活保護を受けているところ、以前は植木屋の手伝いなどをすることもあったが、現在は、高齢のうえ、健康状態も悪くなってきたので、全く働いておらず、収入は生活保護による一か月一〇万〇六〇〇円だけであること、被告は適当な移転先を探したが中々見つからない(たとえば、港区立高齢者用住宅への入居を申し込んだが、希望者が多く、入居できなかった。)ことが認められる。
(三) 右(一)(二)の事実関係のもとにおいては、次のようにいうことができる。すなわち、原告は、白雲荘(その敷地を含む。)のほかにも都内にアパートを所有しているものであり、昭和六一年一二月頃から新築後三〇年余を経過した白雲荘の建て替えを予定していたことが認められるが、現在においても、白雲荘が朽廃に迫っているとか建物の耐用年数が経過しているとはいえず、原告において白雲荘の敷地の有効利用(高度利用)をはかるための建て替えの必要があるに過ぎないものである。また、白雲荘をマンションに建て替えるということについて、その計画が具体化しているとか、その資金調達の見通しがあるということは認められない。さらに、白雲荘の現在の入居者は明渡しの強制執行が可能な二人を除いても五人おり、被告から明渡しを受けても直ちに白雲荘を取り壊すことはできない状況にある。他方において、被告は年令・健康状態・経済状態などからすると、適当な移転先を見つけることが非常に困難であり、被告の本件建物を使用する必要性は極めて高いものがある。そして、そのような被告のために、原告が、適当な代替建物を提供したり、建て替え後の新建物について被告が締結できるような又は他に比して有利な条件で賃貸借契約を結ぶとかの提案をしたという証拠はない。以上によれば、解約申入れについて無条件で正当事由があるとはいえない。
原告において、白雲荘の借家人に明渡しを求め、一部の借家人から明渡しを受けたこと、被告が、本件賃貸借において期間満了の際は明け渡す旨合意し、本件合意解約においても右明渡期限に明け渡す旨合意し、本件建物内に猫をいれ餌をやるなどしたことは、未だ右判断を左右するものではない。
3 原告が平成四年二月七日の本件口頭弁論期日において解約の申入れの正当事由を補完するため被告に対し立退料として一五〇万円ないし裁判所が相当と認める金員(ただし、約二〇〇万円)を提供する旨申し出たことは、当裁判所に顕著である。
ところで、被告は昭和六二年七月一五日賃料一か月三万円で本件建物を賃借したのであるから、二〇〇万円という金額は現在までの賃料総額を超えるものではある。しかし、被告の場合は適当な移転先を見つけることが極めて困難であるうえ、被告本人の供述によれば、被告は立退料を受領してもその金額に応じて生活保護が一時打ち切られるだけであることが認められる。そうすると、被告の場合は、約二〇〇万円余の立退料をもって、正当事由を補完することはできないといわねばならない。
六 以上の次第で、原告の請求は、主位的請求も予備的請求も理由がないから、これをいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 山口博)
別紙物件目録
(1) 所在 東京都港区白金三丁目一七番七
(行政上の表示港区白金三丁目九番一一号)
種類 共同住宅
構造 木造モルタル瓦葺二階建
床面積 合計224.79平方メートル
(2) 右(1)の建物のうち、一階二号室六畳(9.9平方メートル)